傍に居るなら、どうか返事を 思いもよらず聞き惚れたなど、きっと気のせいだ。 彼はまだ、二十歳にもならない子供で、そして、自分に留めを刺した検事で、牙琉霧人の弟だ。 可愛らしいと思った事も確かで、興味を引かれたのは嘘ではない。 けれど、成歩堂が脳裏にも浮かぶことの無かった感情が別の、本能に近い部分から沸いてくるのを感じて思わず眉間に皺を寄せた。 響也は未だにそっぽを向いたままで、先程まで容易く触れていたはずの指先が震える。僅かに数センチの距離を埋めることが出来ずに、成歩堂は動きを止めた。 こんな感情は、違うだろう? 返答が無いことに焦れ、響也が顔を上げる。不可解な表情は、成歩堂特有のもので、人生経験の乏しい響也が、からかわれたのだと思い込むのには充分だったのだろう。赤らめた顔のままむっとした表情に変わり、押さえ込んでいた成歩堂の腕力が弱まっていたせいもあって、ソファーの囲いから逃げ出してしまう。 ゴシゴシと袖で唇を何度も拭く。 「アンタこそ、一体何がしたいんだよ!」 吠える響也の気持ちもわからないでは無かった。 一体何がしたいのだ。 成歩堂は自分に問い掛ける。(触れたい)と、即答する頭とは裏腹な感情が行動を制限した。それは、理性で押し留めているというよりは、本能に近い。 どさりと、もう一度ソファーに腰掛けて成歩堂は目の前の葡萄ジュースを煽った。 唇に触れる硬質な瓶の感覚を確かめるように、きつく入口をくわえ込む。舌先で触れる瓶の冷たさに、ほっとする。 「ん〜。何がしたいと思う?」 辛うじて口端が上がった事に、安堵の気持ちが浮かんだ事など響也にはわからないようだった。柳眉を綺麗に歪めながら、それでも成歩堂の側を離れようとはしない。 ソファーに座り込んだ成歩堂とそれでも距離を置いたが、同じソファーに座り、肘掛けに腕を置いて視線を寄こす。 己の中の憤りに理由をつけたくて、成歩堂からの言葉を求めている事はわかっていた。けれど、口付けを強要されたのだから、普通ならさっさと『変態』呼ばわりでもして、見捨ててしまうだろうに。 響也は、成歩堂がそんな人間ではないと思っているのだろう。それとも、ただ無防備なだけ、か? 身の危険というものに、無頓着なのかもしれない。 「君も男なら、わかるだろうに。」 ぼそりと吐いた言葉は、聞き取れなかったようで、はぁ?と首を傾げた。 「いや、何でもないよ?」 にこと笑えば、憤慨の表情を濃くする。くつくつと咽を鳴らして、成歩堂は少年を見つめた。 からかわれたのだと真っ赤になる顔が本当に可愛らしい。 罵倒の言葉を今にも吐きだしそうな唇も、少女のような長い睫毛も、碧い瞳も。 そして、真っ直ぐに向けられる心そのものが、愛しい。 愛しい故に、触れられない。…触れてはならない。 恐らくそれは預言だ。 彼は検察庁で最も注目されている検事。そして、ミリオンヒットを飛ばす、ミュージシャンでもある。闇を背負う手が、触れて良い相手ではない。 それ以上に、触れてしまったら引き返す事など出来ないだろう。 繋いだ手を離す辛さはもう充分に味わった。幼馴染みの顔を思い出すと、それだけで胃の奥から込み上げてくるものがある。手放す勇気も潔さも自分の中には欠片も残ってはいない事だけは知っていた。 ならば、これ以上、手を伸ばさなければいいのだ。 彼に、牙琉響也に触れてはならない。 「その気がないのに、好きだなんて言っちゃあ駄目だよ。その気がなくても、その気になってしまうから。」 成歩堂は、自分を睨み付ける響也に告げ、にっこりと嗤った。 content/ next |